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魂魄(こんぱく)は、中国の道教や伝統中国医学における霊についての概念である。以下記述する。
道教の魂魄
中国の道教では魂と 魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄 は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。民間では、三魂七魄の数があるとされる。三魂は天魂 (死後、天に向かう)、地魂(死後、地に向かう)、人魂(死後、墓場に残る)であり、七魄は喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望からなる。また、 殭屍(キョンシー)は、魂が天に帰り魄のみの存在とされる。(三魂は「胎光・爽霊・幽精」「主魂、覺魂、生魂」「元神、陽神、陰神」「天魂、識魂、人魂」、七魄は「尸狗、伏矢、雀阴(陰)、容贼(吝賊)、非毒、除秽(陰穢)、臭肺」とされる事もある。)
伝統中国医学における魂と魄
魂
伝統中国医学において、魂とは、肝に宿り、人間を成長させて行くものであり、また、心を統制する働きだとされている。漢字の部首は「鬼」であるが、この「鬼」が現在の「霊」とほぼ同じ意味で、頭にまだ少し毛が残っている白骨死体の象形文字である。左の云は、「雲」と同じで、形のないもの、掴み所の無いものの意味である。魂が強くなると、怒りっぽくなるとされる。
魄
「魄」のほうは、文字通り白骨死体を意味する文字で、人間の外観、骨組み、また、生まれながらに持っている身体の設計図という意味がある。五官の働きを促進させ、成長させる作用があるとされる。肺に宿り、強すぎると物思いにふけるとされる。外観という意味では、「落魄(らくはく、落ちぶれて見てくれまでひどく悪くなる)の語がよくそれを表している。
関連項目
罪悪感(ざいあくかん)とは、人間の感情のうち、自身の行動・指向・在りようなどに関して否定的な印象をもつことである。
人間には、自身の価値観に照らして誤っていると感じる(罪悪感を抱く)行為に対して罪と認識し、これを改善したいと望む傾向が見られ、このような心の働きは良心と呼ばれる。
概要
罪悪感に関しては、まず主観における「罪」と言う概念が必要である。自身の何らかの行いに対して、内在する規範意識(正しいと認識されるルール)に反していると感じる所から罪悪感は生まれる。
規範意識には、人間としての在りようを示した人道という極大な枠が存在するが、これは汎社会的で文化の別なく適用できる概念である。しかし道徳では、その人の属する社会などによって違いも見られ、属する社会が違えば「罪」として認識される範疇も異なってくる。更には場の空気などに代表されるコミュニティ内部に存在する曖昧模糊とした指向性の場合は、これはそのコミュニティに属する者以外の目から見れば無意味に映るような事柄もあり、これに対して反することへの罪悪感と言うのも存在しないではない。より個人的なところとしては個人の価値観に基く美学などもあり、これに反することでも罪悪感ないしそれに近しい自己に対する否定的な感情を抱く場合もありうる。
一般に罪悪感と言う場合は、道徳や宗教的な戒律にそむいた場合などに生まれる感情として位置付けられる。こと宗教的な戒律に反した場合、キリスト教などでは懺悔という儀式的行為で許しを乞う(贖い)などの様式が見られる。
罪悪感は社会性に関する精神機能の一部とも解される。社会技能は人間の集合・組織である社会に対して順応するための技能であるが、罪悪感は何らかの反社会的な行いを行った際に感じる苦痛(一種の自罰)として機能する。またこういった苦い経験から、社会規範に沿おうとする意識も発生する。
罪悪感と疾患
反社会性人格障害のように、罪悪感と無縁の者もいる。また自己愛性人格障害のように、罪悪感を抱く要素を迂回してしまう者もいる。ただそういった価値観ないし人格障害の場合は当人と社会との良好な関係を築きにくくなる傾向もあり、その社会的立場を危うくしてしまう問題を含む。
逆にうつ病では自己否定に関連して本来は自身に責任の無い事柄にまで罪悪感を抱く場合がある。
罪悪感と社会現象
サバイバーズ・ギルトと呼ばれる現象が報告されている。戦争や事故・災害な どの偶発的な事件において、人の生死はしばしば「運」としか言いようの無い偶然の結果などによっても変化するが、この生き残った者が、命を失った者の中に 自分よりももっと生き残るべきだと感じた人が含まれていた場合に、自分の生を否定的に感じてしまうことがある。一種の精神的な後遺症の一つといえる。
児童虐待では、虐待を行った側が自身の行為に対して罪悪感を抱く場合がある。育児に関するノイローゼでは育児ストレスの最大要因である子供を攻撃してしまい、事後になって自身の行為に罪悪感を抱くとされる。