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精神世界(せいしんせかい)は、たま出版の創業者 である瓜谷侑広により日本で広まった物質世界の対義語で、目で見え手で触れることのできる物質世界と、精神・心のみで構成された世界が、重なり合って存在し、相互に影響を与え合うとする物心二元論に基づく世界観

例えば、人間は、肉体は物質世界に、心は精神世界に属し、両者ともにアクセスできるとする。

宗教哲学神話民間信仰などでは、多彩な精神世界論が語られ、それらは霊界、 神々の世界、魔界などと呼ばれている。単に見えない世界の存在を主張するだけでなく、その内部の秩序性、階層性、多重構造性などが同時に言われることが多 い。精神世界で取り上げられる世界観では、見えない世界は高次の世界であり、その高次の世界からなんらかの通信・指示を得ようとする傾向がある。出版界では、ニューエイジの流行にともない、宗教や哲学とは異なったカテゴリとして精神世界というジャンルが確立されている。「精神世界の本」コーナーには1980年前後の各書店に設けられ、心霊ヨガ仙道神秘主義からUFOコンタクトやチャネリング関連、古代偽史疑似科学などの本が並び、場合によってはユングなどの心理学鍼灸などの東洋医学関連の本もおかれている場合がある。一般的には精神世界はオカルトというカテゴリーの一部あるいはオカルトと同義語と見られている。

 

精神世界読者層

書店に「精神世界の本」コーナーが設けられたのは雑誌ムーが刊行される前後であり、その頃読書界に精神世界読者層が誕生したことを物語っている。精神世界は概してモラルや贖罪を説く既存の伝統的宗教では得られないとされる神秘性や「悟り」などを求めるものであり、精神世界の聖地的存在として西荻窪のほびっと村をあげる精神世界読者たちは多い[要出典]。また読者の中には1970年代の学生運動に挫折したものも少なくない[要出典]。また精神世界に対して既存の伝統的教団側論客浅見定雄は批判的であるがカルト問題とあわせて精神世界読者層は何らかの原因で社会に適応することのできなかった要素があると考えられる[要出典]

 

関連項目


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精神分析学への批判と議論

有効性への批判

古い時代の精神分析では、精神科疾患に対する診断が各国、各地、各個人医によってバラバラであった時代が長く続いた。したがって同一の患者が、日本 で、ドイツで、アメリカで、アフリカで、まったく別の診断を下されるという事になり、国内でも東大式診断、京大式診断をはじめとする分裂した診断が普通に 行われていた(正しくは現在もそうである)。
当然のことながら治療結果に関する測定方法論も寄せ集めやでたらめであり、それらの時代の治療への肯定も否定も、ほとんど全て科学的立証として無意味なも のであった。精神分析を肯定する論文も、否定する論文も、ほとんどはこれらばらばらの診断基準、恣意の治療結果測定基準から来るもので、それゆえに様々な 心理療法が、異なる学派の心理療法の専門家は他の学派の心理療法の専門家を自由に批判した。しかし今日のエビデンスベイスドの理念に従えば、それら古い時代の肯定・否定的文章のどちらからも、臨床的効力に関して言及できることは何一つない。

例えば指導的なアメリカ人精神科医であるE. Fuller Torreyは、その著書「Witchdoctors and Psychiatrists」(1986)の中で、精神分析の理論は伝統的な土着の「呪術医」やErhard Seminars Training(EST)のようなオルタナティブな近代「カルト」と同程度にしか科学的根拠がない、と述べているが、1980年代のアメリカの精神科医学は今日からみて幾らか呪術的であり、今日の精神科医学も後世から見ればずいぶん呪術的と言われるであろう。ただしいまだに脳の内部での物理的現象がどのように心理的に具現化するかは解明されておらず、今日の精神科医学も雑誌Scienceに載ったローゼンハン実験Rosenhan experiment) など仮病の精神病と実際の精神病の区別をつけることができない状態にあることが明らかになっている。[Rosenhan, D.L. (1973). On being sane in insane places. Science, 179, 70, pp. 250-8.]

エビデンスに関する実態

エビデンスベイスド時代の精神分析の有効性については、さまざまな疾患に対しての臨床効果の研究がなされているが、エビデンスがある疾患は産後うつ病のみである。

理論や用語への批判

科学的研究に関するサーベイが示すところによれば、フロイトのいう 口唇期(oral phase)、肛門期(anal phase)、エディプス期(Oedipal phase)、 男根期(genital phase)がパーソナリティの傾向として観測されるものの、 これらが子供の発達段階として現れる事も観察できないし、子供時代の経験が成人してからの傾向に影響する事も観察できない。(Fisher & Greenberg, 1977, p399).

精神分析学に対する初期の、だが重要な批判として、精神分析学が定量化や実験にほとんど基づいておらず、理論の大半が病院でのケーススタディに基づいている、というものがある。 それに対し、行動療法認知療法といった他の心理療法は実験的妥当性をもっと考慮している(Morley et al. 1999)。 なかには、フロイトの治療業績のいくつかは、---Anna Oの有名な奇跡すら---、捏造であると告発する者もいる(Borch-Jacobsen 1996)。

精神分析学の概念を定量的かつ学術的に分析している心理学者や精神科医の中には、 この種の批判をするものが増えている。

しかし、こうした発達段階に対する批判が、近代精神分析学に対する決定的な批判だと思ってはならない。 近代精神分析学の理論と実践にとっての決定的な批判になり得るのは、無意識や感情転移に対するものである。 「無意識」の概念に対する疑念として、人間の行動なら観察できるが、人間の心理は推測しかできない、というものがある。 よく精神分析に親密な立場の者は、実験心理学社会心理学の 学部生や大学院生にとって無意識はホットなトピックである(ようやくホットなトピックになってきた。追いついてきた)と表現し、どうやらそれは、 implicit attitude measures、fMRI、PET scansなどのindirect testの事を「無意識」の研究だと勘違いしているようだが、それはつまり本人たちが無意識を理解していないということの表現として、実験心理学者や社会 心理学者の卵に理解されている。

酷く歪曲する精神分析家は厳格な行動主義者の、古典的条件付けの元となる系統発生的随伴性をも無意識と読み替えて行動主義者の顰蹙を買っていたり、 近年の莫大な神経科学の成果を、 精神分析学の理論にそった形で歪曲することで、精神分析学を時代遅れのものにするまいと努力したが、徒労に終わった。

 

ポパーの科学哲学からの批判

科学哲学者のカール・ポパーは、反証可能性を持つかどうかを「真の科学」であるかどうかを見分ける基準として提唱しており、それ故彼は精神分析学は科学ではなくて疑似科学に過ぎないと断じた。

精神分析学はしばしばこの哲学に 基づく批判を浴びることがあるが、精神分析学の方ではポパーの科学哲学に興味を払っておらず、患者の発言内容や表情から治療者の受ける印象のような主観的 情報を数値データのような客観的データに置き換えることは基本的に意味がないとしており、その全体性や対象との関係性などを用いて理論を構築している為、 ポパーの科学哲学から見て満足の得られる理論ではない。

その主張として例えば、もしあなたが恋人との関係性を科学的にデータ化し、置き換えたとしたら、それは恋人そのもので、再現可能だろうか?そのような問いかけそのものがナンセンスである。簡単な例で分かるように恋人との関係は科学ではないし、精神分析も科学ではない。

ただしこれはポパーの哲学の歪曲である。ポパーのいう科学理論とは検証において白黒・可否のつく理論である。その意味では例えば特定の恋人の関係の 理論(例:浮気の有無)が明確に検証(例:第三者との性交)できるのであればポパー的には科学である。ポパーら科学哲学および自然科学者が問題にしている のは、データを数値化できるかどうかではなく、精神分析の理論が正しいかどうかを検証できるのか、検証できないならなぜそれが正しいと言えるのか。さらに 医学的にもっと重要なのは精神病が明確に治療されたとの確定は存在するのか。もっとも、いかに反証可能性が科学にとって重要な特徴であるとは言え、科学と疑似科学の差位は段階的なものである為、近代の科学哲学者の多くは科学と非科学を絶対的に線引きする事は不可能だと考えており、例えばデュエムクワインは「ある仮説を反証する決定的な実験などはそもそも存在しない」と主張している(デュエム-クワイン・テーゼ)。ただし、ポパーはこのテーゼに対する再反論も行なっている。

法律上の批判

催眠などを用いた回復記憶セラピー(2000年頃までに停止)により、偽りの性的虐待の記憶(虚偽記憶/false memory)を植え付けられ、家族関係が崩壊し、それに加えて甚大な精神的苦痛を受けたとして、多くのセラピストやカウンセラーが訴えられ敗訴した。
しかし、これは正確には、精神分析への批判というよりも、フロイトの初期の理論を援用したある種の心理療法への批判であった。また、法廷の中と外では、この記憶戦争(Memory War)に対する評価は大きく異なっている。(参照:過誤記憶

脳科学からの批判

近年は脳科学が劇的に進歩したため、精神医学もによる説明を求められるようになったが、精神医学が経験則や現象学的な考えから成り立っている上、脳科学自体が発展途上にあるという事情もあり、未だ説明が不十分でない。精神分析の用語には脳科学的な妥当性を持つものは無く、無理に認知心理学などの用語に置き換える場合もあるが、それも不可能であるケースが多い。

精神分析による人類学・民俗学研究への批判

精神分析を医学以外の分野に応用した際に精神分析の誤りが露呈してしまう事がある。

例えばフロイト自身が『トーテムとタブー』という人類学の研究書を書いたが、リヴァースボアズクローバーマリノフスキーシュミット、そしてレヴィ=ストロースといった人類学者達はこれを馬鹿げてると公言してはばからなかったし、権威ある宗教学者エリアーデによると、この本は研究書というよりも「手におえないゴシップ小説」で、書かれている事も「気違いじみた仮説」にすぎないと断じた。 (『オカルティズム・魔術・文化流行』、ミルチア・エリアーデ)。

また精神分析学者のエーリッヒ・フロムブルーノ・ベッテルハイム等は『赤ずきん』をはじめとしたメルヘンを読んで精神分析的解釈をし、民間伝承や民俗学に関して様々な考察をしたが、これらは間違ったものが多かった。 なぜなら今日知られている「赤ずきん」の話の内容の多くはシャルル・ペローが 創作したものであって歴史が浅いので、それを読んでも民俗学的知識が得られるはずがなかったのである。 例えば「赤ずきん」に出てくるずきんの赤さをフロムは「月経の血」、ベッテルハイムは「荒々しい性的衝動」と解釈したが、ずきんを赤くしたのはペローのア イデアであった。

また相互に矛盾した解釈も多く、『白雪姫』の中で白雪姫が逃した狩人はベッテルハイムによれば「エディプス期の少女にとっての理想的な父親像」であったが、ビルクボイザーによれば「女性の心中にある男性的性質」であったし、七人の小人はベッテルハイムによれば「白雪姫という太陽の回りをまわる七つの惑星」であるが、ビルクボイザーによれば小人達は「深みに隠れた財宝(=王子)を探す創造的行為」の象徴であった。

メルヘン学者のロバート・ダーントンは彼らを批判し、「精神分析学者のフロム氏は存在しない象徴を超人的な敏感さで嗅ぎとって、架空の精神世界へ我々を導こうとした」と述べた。 (参考:鈴木晶『グリム童話』。ダーントンの言葉はこの本から引用)。

さらに、フロイトの継承者を自称し、ポストモダニズムの思想家としても知られるジャック・ラカンは、数学の概念であるトポロジー神経症と関連づけ、また、虚数無理数を混同するなどした。このため、それらを全くのデタラメであるとして、物理学者アラン・ソーカルから批判された(ソーカル事件を参照)。

 

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