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因果(いんが、梵 hetu-phala)は、もとは仏教用語であったが、転じて原因と結果のことを指すようになった。ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、AをBの原因といい、BをAの結果という。このとき、AとBの間には因果関係があるという。
因果応報
因果応報とは、ことわざなどに含まれる用語である。「善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る」と、 主に後者の「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多い。しかし実際の起源・意味としては間違っており、ただ単に「行動」と「結果」は結び付い ているという意味でしかない。ここに一つ例を挙げる。
人物Aが人物Bの落としたハンカチを、まったくの善意で拾って手渡してあげた。しかし人物Bは自身の持ち物を他人に触れられることに極度の嫌悪を感じる人間であり、逆上した人物Bは持っていた包丁で人物Aをメッタ刺しにして殺害した。
ここでは「善意が悪意で返ってきた」わけではあるが、因果応報という言葉の意味とは矛盾しない。なぜなら人物Aがハンカチを拾った「行動」によっ て、人物Bが人物Aを刺し殺すという「結果」が生まれてしまったわけであり、「行動と結果の因果関係に矛盾や無理が存在しないから」である。
仏教の解釈
釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。
仏教で通俗的に因果と言う場合には、業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことが多い。「善因楽果・悪因苦果」と言うように、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便(本来の教説に導くための一種の方法)としてしばしば使われる。この因果は自然科学的法則ではなく、われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的に規定する教説として言われたものであろう。
しかし、このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教本来の考え方にはそぐわない。
善因善果・悪因悪果・自因自果
因果の道理は大きく3つに分けられる。すなわち、善因善果(善を行えば、善果が返る)・悪因悪果(悪を行えば、悪果が返る)・自因自果(自分の行いの報いは、自分に返る)の3つである。また、これらを知れば当然、廃悪修善の心が起きてくるものであり、諸仏が共通に教える七仏通戒偈には「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」と説かれている。
過去現在因果経
過去現在因果経は、5世紀に求那跋陀羅(ぐなばつだら)によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行(本生譚、ジャータカ)と現世での事跡(仏伝)を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
因中有果(いんちゅううか)
正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
法律用語としての因果
認識と発話(パロール)の因果関係
人間は考えるとき言葉を使って考える。認識と発話は規則的に対応して意思・行動になる。
この規則は人間の意識では変更できない。それだけに、飲酒や薬物などでその規則性・因果律を歪めたい欲望が生まれる。音楽もまた認識と発話の規則性に作用する。
認識と発話の間に因果律が在ると考えると、それが個性とか意識下・潜在意識の人格と考えられる。
関連項目
インテリジェンス(英:Intelligence)とは、知能・知性や重要な事項に属する知識・情報である。日本語では直訳の場合に於いて単に知能とのみ訳されるが、外来語(カタカナ語)ないし和製英語として同語が用いられている場合は、知能的な働き全般や、その精神的な働きによって現された現象や結果の程度を評する場合に用いられ、また人工知能のような「賢い機械」の機能を表す場合にも使われる。
概要
インテリジェンスは既に述べたとおり、知能やそれの働き、あるいは知能が働く上で利用する情報群などを内包した概念であるが、物を考える能力がある からといって、或いは情報が集積されているからといって、それがインテリジェンスの概念に相当する訳ではなく、その双方が揃って正しく機能することがイン テリジェンスであると解される。
知性は感覚器官で知覚された情報を、内部情報や様々な経験といったものと照らし合わせて、客観的(→主体)に的確な判断を下すことである。これは生物学などの視点から見れば程度の差こそあれ昆虫や微生物といった極小な生物でも普遍的に行っていることであるが、より高次の哲学など精神性や抽象的概念を論じる分野に於いては、昆虫や微生物が外界を知覚してそれに即した行動を行ったからといって、これが知性の働きによるものだとは余り認識されない。
一方で今日我々人間が利用しているコンピュータを含む様々な機械や装置は、その機能を詳しく知る者にとって、昆虫や微生物の脳機能程度の複雑さしかなく、しかも自然界に存在する脳神経回路と比較した場合には、極めて限定された機能しか持たない上に、その大きさはイカの脳をコンピュータとしてみた場合に驚くほどコンパクトで高速演算機能を備えているなど、人間の道具としてのコンピュータの計算速度はまだまだ原始的な動物の脳ほどにも賢くはない。しかしこれら人間の道具として作られたコンピュータは利用者が操作しやすいマンマシンインタフェースを備え、また人間が理解できる形で情報を出力する機能をもち、人間が求める機能に特化して設計されているため“インテリジェンスである”と認識される。
関連項目
- ロシア語の「インテリゲンチャ」を語源とする略語。しばしばインテリジェンスの略語としても同じ言葉が用いられるため、双方の間に混乱がある。「インテリマウス」などは「賢い機械」の延長である。