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学歴コンプレックス(がくれきこんぷれっくす)とは、自身の不満足(→フラストレーション)の原因を、自ら(あるいは相手)の学歴に関連づけることで感じる劣等感・自尊心のこと。
概要
この言葉は、単純な学歴にまつわる劣等感による場合と、肥大した自尊心の発露である場合の双方を指す。但し、医学用語としてのコンプレックスとは殆ど関係がなく、コンプレックスの中でも「劣等コンプレックス」という概念の典型的な誤解に由来する言葉であるため、俗語の範疇に含まれる。
自身の評価を学歴と強く関連付ける行為(学歴コンプレックス)の典型的な例として、相反する以下のような二つの側面が見られる。
- 個人は学歴によって評価(ないし差別)されるべきではない(そうされたくない)。
- 個人は学歴に見合った評価がされるべきだ(そうでなければ不当だ)。
学歴の社会的な評価は成果主義もあり、現代の日本では本人にのみ起因する属性とみなされる傾向がある。端的に言えば、「学歴は努力と人脈の 証明」という考え方である。後者の「人脈」にかぎっていえば、広くは世間の中の大学という属性により、その人格が一定程度担保されるという性質を持ってい る。その上で学歴をもって自身の社会的評価であると考える人が(一部で)生まれるのだといえよう。特に、在学中や社会に出てから生じる世間との食い違い が、一般的に「学歴コンプレックス」と解される。
例えば「本人が希望する学歴を得られなかった場合」に、社会的に見て自分の劣っていると考える部分(就職の失敗・薄給・出世の遅れ)と学歴とを過度に関連付け、その自分の状態ないし自分にそれを強いる社会的な構造を否認しようとする場合がある。また、肯定的に捉えた場合も生涯学習などで自分の遅れを取り戻そうと考える人は多い。これらの現実は、必ずしも本人の学歴にのみ起因する問題ではないともいえる。しかしその一方で、未だ日本は明確な学歴社会であり、同時に成果主義もホワイトカラーの職種にも浸透してきていることから(主観的な)学歴を得られなかったとしても、それを追い求めることは(コストパフォーマンスの認められない場合を除き)決して非現実的な選択肢とはいえない。 これが広義では前者の例に当てはまる。
一方で、望む学歴が得られたのにも関わらず、本人の望むような社会的待遇が得られていないと感じる場合は、そのように「不当な評価」を押し付ける社 会を否認する傾向が見られる。これが後者の場合である。これも上の例と同様に「学歴以外にも原因がある」という可能性が含まれるが、肯定的・否定的評価に かかわらず学歴保証を求めるという点は変わらない。
どちらの場合にしろ、学歴コンプレックスの問題意識は、学歴とこれにまつわる社会構造の問題というよりも、当人の現実認識が「学歴」という一つの指 標に囚われている結果に過ぎないと見なせよう。これら学歴コンプレックスの持ち主は、しばしば大学名や序列に強いこだわりないし執着を見せる場合もある が、これも一定の範囲における社会構造や人々の認識の下でのみ成立すると考えられ、必ずしも汎社会的な構造という訳でもない。
また、学歴は本人の努力を前提とするが、本人の先天的能力に加えて家庭環境や社会環境といった多様な要因が複雑に絡み合って決定される属性である(→ピエール・ブルデューによる『文化資本論』)という側面を持つ。また、脳科学者の茂木健一郎によると人間の資質に寄与する脳の50%を占める要素が遺伝で、残りの50%が環境だと述べている(NHK プロフェッショナル 仕事の流儀)。 この発言は、人間は5割の可能性で脳の力(知的体力)を克服することが可能であることを示していると同時に、実は残りの5割が環境だけではなく先天的な遺 伝性でも能力が決定される事実を表している。しかし学歴コンプレックスを持つ本人は、学歴を個人における後天的な行為(努力や選択)の最終審判として過度 に重視し過ぎる傾向があると見なせる。
心理学的な観点からは、人が学習性無力感を 獲得した場合、積極的に環境に影響を及ぼす行為(=努力)に対する意欲が湧かず、解決できない問題を自らを取り囲む固定的な環境(=能力や経歴など)に求 める傾向が強まるという。そのため、学歴コンプレックスを学習性無力感の一端と見る向きもある。ここで重要と言えるのは、一度学歴コンプレックスを獲得し た人物は、(学習性無力感の影響によって)本来ならば解決可能な問題まで解決不能ないし困難になる点である。つまり、学歴コンプレックスを持つことによ り、本人が保持しているはずの本来の能力を十分に発揮できなくなってしまう可能性がある。
学歴コンプレックスを生みやすい大学の特徴
- 上位大学出身の教授が多く、学生を刺激することが多い。
- 大学が地方に存在する。(就職などで都市部の大学と比較されざるを得ない状況となる)
- 殊に関西の大学には、首都圏の大学に対しての対抗心を学生に埋め込む傾向が見られる。[要出典]
- 知名度や就職実績が低い。
- 大学出身の著名人や学者が少ない。
- 上位学部であるにも関わらず、大学名でレッテルを貼られることがある。
- 世代により評価の揺れ幅が激しい大学である。
- OBなどの存在が薄い。
- 学閥が存在しない。
このように学歴コンプレックスの原因はしばしば大学の運営問題にまで発展する。 早急な改革が求められているわけである。
首都圏や関西圏の主要都市に見られる大学の序列化
首都圏や関西圏には全国的にも知られる大学が多い。 また、これらの地域には有名企業が多数所在しており、大学生の間にも自然に新卒雇用機会の不平等が生じてしまう。 首都圏ですら骨肉の争いをしている現状で、地方大学の実情はよりいっそう困難なものとなる。 たとえ地方の有力大学であったとしても、上記の都市群に比べて民間企業や学界に占めるOB・OG数が少ないことも多く、また就職活動の ために公共交通機関を利用して何度も選考に参加しなければならなかったりする。 そのような背景から、地方大学は首都圏に勤務する卒業生を輩出する数が少なく、結果学歴的に不利だと言わざるをえない。 もっとも、地方の有名大学には地元で有力な人材を輩出していることも多く、また難易度の割に評価されている大学も一部に見受けられるので、けっして悲観的 になる必要はない。
背景
日本の場合は、例外も増えつつあるが、初めて就職する際の学歴が個人の一生に大きな影響を及ぼすことが多い。そして、この影響を何らかの作為で排除することが困難である。
学歴コンプレックスの例
学歴コンプレックスを持つ人々は、以下のような言動を取ることが多い。
-
- 自己の選択を正当化するために他を強引に否定する。
- 妄想を伴う論理の飛躍
- 自分の実力の無さの責任を学歴の差に押しつける
- 向学心の高さとその成果を否定する
- 欧米コンプレックスとの複合
- 学歴と実務能力を混同する
- 家族や交際相手の学歴を自慢する。
なお、上に挙げたような言動の中には、しばしば防衛機制の典型的な例が見受けられる。
学歴は、履歴書や公式なプロフィールでしばしば公表されるため、公表された学歴とその個人との業績とを結び付ける行為が学歴コンプレックスを誘発することもある。
その他
- 親が学歴コンプレックスに陥っている場合、子の学習に対して必要以上に干渉しプレッシャーを与え続けるいわゆる教育ママ(教育パパ)になりやすい。
- コンプレックスを克服するために再受験を行う者も存在する(仮面浪人など)。
- 持って生まれた頭の良さと学歴の関係は皆無である。
関連項目
悲しみ(かなしみ)は負の感情表現のひとつ。脱力感、失望感や挫折感を伴い、胸が締め付けられるといった身体的感覚と共に、涙がでる、表情が強張る、意欲・行動力・運動力の低下などが観察される。さらに涙を流しながら言葉にならない声を発する「泣く」という行動が表れる。
一般的に愛情、友情、依存、共栄の対象が失われた時に見られる。悲しみは「深い、浅い」と表現され、対象と自身とのつながりが強い程、深い悲しみが訪れる。そういった意味では最大の悲しみは身近な人の死である。しかし「対象が失われる」とは死だけではなく、存在が遠くなる、つまり恋人との別れや夫の単身赴任といったことや大事にしていた物が壊れる、楽しみにしていた行事が無くなるといったことも含まれる。対象が失われる程度についても、悲しみの深さに大きく起因する事項である。
最初は怒りによるその事実の否定からはじまり、自身の脳でその現実を受け止めるとともにこみ上げてくる感情である。事実を否定するほどでもない悲しみの場合は、怒りによる拒絶は発生しない。
喪
親類を亡くした際、葬式の後に「喪に服す」期間があるのが一般的であるが、これは悲しみを克服するための期間であり、フロイトはこの期間で己がなすべきことを「悲哀の仕事」と名づけている。悲しみを克服する期間が十分に与えられない場合、人間は抑圧状態となり、うつ病、引きこもり、不感症、多幸症などといった症状があらわれたり、それらが引き金となり、悲しみを忘れようとして他の物事に熱中し、過労になったりする。