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意識(いしき、Consciousness)とは自分の今ある状態や、周囲の状況などが正確に認識できている状態のことを指す。
分野ごとに様々な定義があり、論の展開も著しく異なるので、以下個別に解説する。
医療・救急分野における意識
意識の性質
意識の構成には「清明度」、「広がり」、「質的」の三つの要素が存在するが、このうち一般的に意識障害というと「清明度」の低下についてを指す。[要出典]「広がり」の低下(意識の狭窄)は催眠であり、「質的」の変化(意識変容)はせん妄やもうろう等を指す。
意識・無意識
- 意識は脳の働きが活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態である。
- 「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。
- 無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態である。刺激に対する反応が部分的な状態である。
- 「意識がない」とは、脳の働きが部分的に停止し、刺激の入力を拒否した状態である。
- 「気を失う」とは、過剰な刺激に対しショックを受け、脳の働きが停止した状態である。
意識レベル
医療の現場に於いては、意識の状態・反応に応じて「意識レベル」で表示する。救急医療では、先ず負傷者等の意識を確認して「意識レベル」の判定を行う。
「意識レベル」はGlasgow Coma ScaleやJapan Coma Scaleによって数値化して評価される。
哲学における意識
中世において、意識はほとんど良心と同義であり、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった。
意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。ルネ・デカルトは仏: Je pense,donc je suis(我思う、ゆえに我あり メルセンヌ神父によるラテン語訳羅: Cogito ergo sum)などの方法論的懐疑により、後世に主観的でありしかもなお明証性をもつ羅: Cogitoと表現される認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。
ゴットフリート・ライプニッツにおいては、全表象能力はおのおの明晰さの度を持ち、もっとも完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語: Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と造語し名づけた。イマヌエル・カントは、Cogitoを「純粋統覚」(reine Apperzeption)とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。
意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、"独: das Ich"(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。つまり、そのようなdas Ichは、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち({{lang-de-short|Tathandlung}(日本語訳 事行=自己を認識する活動である)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、フリードリヒ・シェリング、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を」独: Unbewusstsein(意識でないもの)、独: Bewusstlosigkeit(意識を欠いた状態)(日本語訳「無意識」)と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学に再び座を譲った。
心理学における意識
19世紀の心理学における意識
19世紀中葉のヨーロッパでは、哲学から心理学が分科した。ヴィルヘルム・ヴントは意識という概念を中心に心理学を組み立てようとした。意識は自分の感ずる「感覚」「感情」「観念」に分けられる。この3つの意識を自分自身が感じたままに観ることを内観法(ないかんほう)という。
行動主義心理学における意識
行動主義心理学では、意識という概念を用いずに、刺激と反応という図式で人間の行動を理解しようとする。
関連項目
精神分析学における意識
精神分析学では人間の心を、意識・前意識・無意識の3つに分ける。
自分で現在認識している内容を意識という。つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。意識は短期記憶・作動記憶と関係がある[要出典]、ともされる。
自分で現在認識していないが、努力すれば思い出すことができる内容を前意識という。前意識は長期記憶と関係がある[要出典]ともされる。
自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない内容を無意識という。精神分析学では通常の方法では思い出せない無意識下にあるものを、自由連想法などを用いて意識に持ってゆくことで無意識を理解しようとした。
認知科学・人工知能における意識
認知科学、人工知能の分野では、人間が人工知能に質問などをして、その人工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか、とアラン・チューリングが提案した(チューリング・テスト)。
関連項目
心の哲学
詳細は心の哲学を参照
現代の心の哲学でも意識は扱われている。実に様々な説・主張がある。詳しくは同項目を参照のこと。
関連項目
プロトサイエンス・疑似科学などにおける意識
探求者の立場により定義、内容もさまざまで、大胆な仮説が多く、議論が分かれているのが現状である。
自分が慣れ親しんだ諸理論や学問上のツールを、なかば強引に流用して意識の理論を構築しようと試みている研究者なども存在する。(究極の一要素にこだわる還元主義的な発想に陥っているもの、なにがなんでも数式や方程式で表現することにこだわるものなど)
また、一部内外では、心の哲学における細かい論点に対する科学の分野における議論が未熟であること、意識そのものの捉え方が研究者ごとに大きく異なり曖昧になっていること、などを問題視・疑問視する声もある。 今後は、従来の分野の域を超えた学際的な議論が期待される。
以下に、意識の仕組みを解明しようとしている、仮説提唱者の一部を示す。

- 理論物理学者、現在オックスフォード大学教授。意識に関する次のような独自の仮説を提唱している。すなわち「脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識が生起する」としている。この仮説は「ペンローズの量子脳理論」「ペンローズの量子脳仮説」などと呼ばれている。微小管とは細胞骨格の一種で、細胞の構造を維持する役割を担っているタンパク質の複合体。微小管という耳慣れない言葉を持ち出してきた背景には、脳内の広い範囲で、ある程度の時間量子力学的な重ね合わせ状態を維持できそうな構造物が、微小管以外に見当たらなかったためだという理由がある。このペンローズの量子脳理論は三つの大きな仮定の上に組み立てられている。ひとつは「人間の思考はチューリングマシンの動作には還元できない」という仮定、もうひとつは「波動関数の収縮はチューリングマシンで計算することが不可能な、実在的物理プロセスである」という仮定(憶測)、そして最後は「量子論と相対論を 理論的に統合することで、意識の問題も同時に解決される」という仮定(憶測)である。これら個々の仮定はどれも、科学者コミュニティーの間で一般的に受け 入れられているものではないのにもかかわらず、それらを更に一つの理論として結びつけてしまったのが、ペンローズの量子脳理論である。しかしながら、こう した憶測の上に憶測を重ねて構成された仮説であるため、内容の正しさについては一般的に懐疑の眼で見られている。ただ、著名な理論物理学者ペンローズに よって提唱された仮説という事もあり、知名度だけは高い。また、ペンローズの仮説の詳細を良く理解しないまま、疑似科学的な主張に都合良く利用されている ケースもある。
- 茂木健一郎
- 脳科学者、現在Sony CSL上級研究員。基本的な立場としてはデイヴィッド・チャーマーズと同じ路線を歩んでおり、クオリアまでをも含んだ全ての現象を扱いうる「拡張された物理学」を志向している。茂木の著書「クオリア入門」も「心も自然法則の一部である」という表題から始められており、「意識のほんとうの科学を目指す」という自身の方向性をはっきりと明示している。また茂木は「脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起している」という独自の作業仮説をとり、そこからクオリアが持つ(であろう)何らかの数学的構造を見つけることが出来るのではないか、として研究を行っている。具体的には発火しているニューロンの時間的・空間的パターンをミンコフスキー空間内で幾何学的または位相幾何学・グラフ理論的に抽象化し、そこに群論的な数学的構造を見出そうとしている[要出典]、ともされる。
- 前野隆司
- 工学者、現在慶應義塾大学機械工学科教授。専門はロボティクス。前野はロボットに人間と同等の機能をもたせるようプログラミングする、といういわゆる人工知能の問題を追いかけている途上で、意識に関する仮説「受動意識仮説」を見出し、広く世間にその真価を問うている。工学者の前野らしく、意識についてかなり工学的な議論を展開する。
- 中田力
- 脳科学者。脳にはニューロンネットワーク以外の機能構造があるとし、グリア細胞に存在するアクアポリン4を介した水分子のクラスター形成によってランダムなニューロンの発火、つまり覚醒がおこるとする仮説を展開している。[1]
神経科学者などによる意識の探求
神経科学などを専門としている医学関係者による意識の探求は、人間(あるいは患者)の事例・症例を多数踏まえ、脳の解剖や神経組織の観察・実験などから意識現象と物理的な要素をすり合わせ的に検証している。
研究者としては例えばジョゼフ・ルドゥー、アントニオ・ダマシオ、ベンジャミン・リベットなどが挙げられる。
最 新の成果からは、意識は行動に先んじない(つまり後追いする)という事が確認されており、この事から「意識とは自分の現状をモニター(監視)する機能であ る」と結論付けられつつある。 つまり意識はモニター監視した結果をフィードバックする事で、その後の行動に反映するという形で間接的に行動を制御は出来るが、その瞬間瞬間に行動を直接 的に制御しているのではない、といったことである。[要出典]
- クリストフ・コッホ
- フランシス・クリックとともに、科学が意識の問題に挑む第一歩として、「意識と相関する脳活動(NCC)」 を神経科学の実験により追求していくことが得策であるとして具体的な研究手法を提案した。意識の機能を脳活動と対応づけていくことが着実な進展につながる と考えている。意識の機能として将来の行動のプラニングが重要であることから、前頭葉に直接投射のある脳部位の活動がNCCの一部となっていると考えてお り、解剖的に前頭葉へ投射していない第一次視覚野の活動は直接意識に上らないという「V1仮説」を提唱している。その他にも、意識に関して理論的考察か ら、「非意識ホムンクルス」などの概念も提唱している。クオリアは計画モヂュールなどの一歩手前のニューロン連合からつくられると考えている。これは ジャッケンドフの「意識の中間レベル理論」に準拠し、意識の内容は常に知覚の形式をとると主張している。一方、より抽象的な「思考」などは非意識に遂行さ れると考えられる。現在カリフォルニア工科大学教授。
脚注
- ^ 中田力『脳のなかの水分子』意識が創られるとき 紀伊國屋書店 ISBN 4314010118
関連項目
人物
- ジョン・エックルス - 二元論
- ワイルダー・ペンフィールド - 二元論
- 二分心 (Bicameral Mind) - 意識の起源に関する考察
意識の流れ (いしきのながれ、英: Stream of consciousness) とは、米国の心理学者のウィリアム・ジェイムズが1890年代に最初に用いた心理学の概念で、人間の意識は静的な部分の配列によって成り立つものではなく、動的なイメージや観念が流れるように連なったものであるとする考え方のことである。
- アンリ・ベルグソンも時間と意識についての考察の中で、ジェイムズと同時期に同じような着想を得て、「持続」という概念を提唱している(ベルグソンとジェイムズの間には交流があったが、着想は互いに独自のものとされることが多い)。
文学上の手法としての「意識の流れ」
この概念は後に文学の世界に転用され、文学上の一手法を表す言葉として使われるようにもなる。すなわち「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」を表す文学用語として「意識の流れ」という言葉が用いられるようになる。この用法を最初に使ったのはイギリスの女性小説家、メイ・シンクレアだとされる。
人間の思考を秩序立てたものではなく絶え間ない流れとして描こうとする試みは「意識の流れ」という語の成立以前からあり、最も早い例としてはローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』などがあるが、特に近現代の意識の流れを用いた小説には心理学の発達、殊にジークムント・フロイトの影響が見逃せない。
意識の流れ手法を用いた代表的なイギリスの小説家としては、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、キャサリン・マンスフィールド、ドロシー・リチャードソンなど。この手法を用いた作品として挙げられる例にはジョイスの『ユリシーズ』、ウルフの『灯台へ』、フォークナーの『響きと怒り』などがある。
また、内的独白や無意志的記憶という用語で表されることもある。