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概要
人間には、様々な欲望があるため、それらを抑える様々な様式があり、また理由も様々である。一般に広く見られる様式では、食欲を抑える断食と、性欲をおさえるものであるが、その一方で物欲や出世・地位に対する欲望といった人間固有のものを抑えることもある。
中には睡眠欲や排泄欲のように、動物の生理機能上で欠く事のできない(欠かせば健康に極めて有害である)ものを抑えようとする者もいる。ただし流石に5大欲求の一つである呼吸まで我慢しようとする者は稀である。
特に宗教関連の禁欲では、性欲を抑える事を指す傾向が見られ、この中では自慰行為も禁止している場合もあるが、その一方で男女の交わりのみを禁止していたり、同性間のみの関係をタブーとして禁止していたりと、宗教や文化によって様々な様式が見られる。
形容詞としての禁欲
形容詞として「禁欲的」とする場合は、一般の大衆が好むであろう事柄を、余り好まない人の行動や傾向を指しているとされる。
これには個人の嗜好や趣味に拠るところもあり、あるいは個性の一端でもある。当人にしてみれば、それらに対して欲望を感じていないケースまである。例えば非性愛者は性行為を楽しもうとは思わないし、下戸は宴会の席で酒類の鯨飲を楽しんだりはしないだろう。
例え禁欲的と評されたとしても、当人にその欲求が無いか弱い場合は、本来の意味の禁欲では無いと思われるが、禁欲的という表現が客観によるものだけに、しばしば見受けられる。
意義
本来、これらの欲求は生物としてのヒトが、その生存の用を足すために発達してきた物であり、例えば人間に顕著に見られる社会的欲望(支配欲や権力への欲求など)も、社会的動物である所の人間が、より強固な社会を得たいとする欲求の一端といえる。
しかしこれら欲求も、度を過ぎれば社会にとって問題となる傾向が見られる。例えば食欲が、属する社会に食料が余り豊富に無く、一部の者がこれを食べてしまうと全体に行き渡らない場合に、その社会の各々が多少は食欲を制限しないとならなくなる。また性欲についても、無闇に子を成せば、それらの養育で社会の貧困が進むような場合には、やはり抑制されなければ社会的危機となる。
その一方で、精神修養のために断食や粗食を通して、あるいは性欲を抑える事で、より高度な精神性を獲得できるという考えもある。これは主に神秘主義や宗教に顕著な傾向だが、これらの思想は元を正せばより良い社会の構築をめざしているだけに、各々の個人に欲望に妄りに耽らない強い精神的な力を求めた部分に関連すると考えられる。
しかしその精神修養の一部には、極めて高度な精神性を獲得する事で、聖人のように奇跡を起こせると信じている人たちもいる。なおこの奇跡の中には、集団幻覚や身体が危機的状態に陥ってせん妄状態(→妄想・妄執)を起こしていた可能性も含まれるため、禁欲により奇跡が起こせるかどうかは微妙である。
問題点
これら禁欲であるが、生存に不可欠な欲求を理性で抑える事により、過度に行えば身体に何らかの悪影響を及ぼす場合がある。例えば断食では、これによって死亡ないし栄養失調で健康を害した事例は数知れない。ただきちんと栄養管理された断食は、ダイエットや健康ブームにおける健康法としても利用されている。ただこの健康を目指した断食も、一部の医学的根拠の無い提唱者によるものでは、やはり健康被害を受けたという事例も報告されている。
また睡眠を禁止した場合、精神的な活動に有害な影響があり、これはしばしば拷問に使われている(→断眠)。その一方で、一部の問題のある団体などが精神修養と称して断眠を行わせ、洗脳やマインドコントロールといった問題行為の前駆とするケースすら見られる。
なお、性欲の抑制については男性が射精をしない場合、精子は分解されて吸収されるため、射精の禁欲は生理的には問題がない。
宗教においては、物欲(世俗欲)を良くないものと捉える傾向がある。そのため、一部の新興宗教の団体は、「物欲を捨てさせる」という名目で自身の団体に個人資産の寄付・寄進を強要する場合がある。但し、伝統宗教(キリスト教や仏教)の一部の宗派の中にも、入信後に個人資産の全てを宗教団体に寄付しなければならないと考えるものがあるため、寄付の強要が必ずしも社会的価値観に反するとは限らない。特にイスラム教では、個人資産(の一部)を寄付することが宗教的義務となっている。
関連項目
- 性欲を我慢しないで、望まれない妊娠・出産を抑制する方法である。
クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、またはそれを構成する個々の質感のこと。感覚質(かんかくしつ)とも訳される。
概要
外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えそれを脳に伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。
簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。
こうした非常に身近な概念であるにも関わらず、クオリアは科学的にどう取り扱われるべき概念なのかが良く分かっていない。この問題は「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」[1]と呼ばれている。すなわちクオリアとは一体どういうものなのか、そしてそれは私たちのよく知る「物質」 と一体どういう関係にあるのか。こうした基本的な点に関してさえ全ての研究者からの合意を取り付けているような意見は未だにない。現在のクオリアに関する 議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、 という方向で行なわれており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、実に様々な考え方が提出されている。
現在こうした議論は心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に展開されており、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、クオリアの問題が議論されている。
また科学の側では、脳科学、認知科学といった人間の心を扱う学術分野を中心にクオリアという語が頻繁に使用される。
人が痛みを感じるとき、脳のニューロンネットワークを走る電気信号自体は、「痛みの感触そのもの」ではない。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係こそあるものの、両者は別のものである。
クオリアとは、ここで「脳の状態」だけからは説明できない「痛みの感触それ自体」にあたるものである。しかし、クオリア自体を言語で正確に記述することは難しい。
類義語を採用しない理由
現象的意識や主観的体験な どもクオリアとほぼ同義の言葉であるが、しかしながらこれらの言葉は「同時に体験されている種々雑多なクオリアの集まり全体」のことを指して使われる事が 多い。例えば仕事帰りのあなたが体験しているクオリアには次のようなものがある。脇を走り抜ける車が出すブンブンとした音、夕暮れの空の赤さ、近所の家の 換気扇から流れてくるおいしそうなシチューの匂い、心地よい疲労感などなど。このとき、同時に体験しているこれらクオリア全体のことを指して現象的意識、 主観的体験などと言うのが一般的である。
クオリアと似たような意味内容を持った言葉は歴史上数多く存在してきた。例えば西洋哲学で表象や、ジョン・ロックの二次性質という概念、またセンス・データや、現象学における現象という概念などが、また東洋哲学においては仏教における六境という概念などがクオリアと非常に近い意味を持つ。にも拘らずクオリアという新しい呼び名が使われる背景には、次の二つの理由がある。ひとつは、表象や現象という言葉が既に多義語で あり、厳密な意味を持たせて使用するのが困難であること。そしてもうひとつは、先述の語とは用いられる文脈が異なることをはっきりさせる目的があることで ある。つまり表象や現象という言葉が純粋に思弁的な議論で用いられることが多いのに対し、クオリアという言葉は、必ずと言って良いほど、神経細胞や原子、物理法則、脳といった科学用語と一緒に登場し、かつそういった自然科学的な知識を重視したスタンスでの議論が行われる、という事である。この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点から、旧来の用語とは異なる「クオリア」という新語が好んで使われる。
様々なクオリア
人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。
- 視覚体験 視覚体験には様々なクオリアがともなう。その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのが色であり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、そして奥行きがある。片目で世界を眺めるよりも、両目で世界を眺めた方が、世界はより三次元である。つまり奥行きのクオリアが伴なう。
- 聴覚体験 聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードやメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。
- 触覚体験 触覚からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。
- 嗅覚体験 嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の 芳香剤の臭いなど。それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合した際に、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定 の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。この組み合わせがどのように成立しているかは、依然と して何も分かっていない。
- 味覚体験 味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の 五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚 と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅 覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていな い。
- 冷熱体験
- 痛覚
- 他の身体感覚
- 心的表象
- 意識的思考
- 感情
- 自分という感覚
このようにクオリアが持っている基本的に異なったいくつかの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。しかし時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。
クオリアに関する思考実験
クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。
- 逆転クオリア
- 同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じら れることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。
- 哲学的ゾンビ
- 全ての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。
- マリーの部屋
- 生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から開放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて色、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。
- コウモリであるとはどのようなことか
- コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。 コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっ とすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る 術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する[2][3]。
自然科学との関係
たとえばリンゴの色について考えた場合、自然科学の世界では「リンゴの色はリンゴ表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明される。つまり、リンゴ表面の分子パターンが、リンゴに入射する光の内特定の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と。 そしてこの一連の現象の内、次のような点に関しては神経科学・物理学・哲学といった専攻や立場の違いに関わりなく、ほぼ全ての研究者の間で意見が一致する。
- どのような分子がどのような波長の光をどれぐらい反射するのか(⇒光化学)
- 反射した光は、眼球に入った後、どのようにして網膜の神経細胞を興奮させるのか(⇒網膜)
- その興奮は、どのような経路を経て脳の後部に位置する後頭葉(視覚野)まで伝達されるのか(⇒視神経)
- 後頭葉における興奮は、その後どのような経路を経て、脳内の他の部位に伝達していくのか(⇒神経解剖学)
だが一般に、こうした物理、化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範 囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されないまま残されてしまうことになる。この現在の自然科学からは 抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、1994年にオーストラリアの哲学者ディビッド・チャーマーズは、「それは本当に難しい問題である」として「ハード・プロブレム」という名前を与えた。
クオリアの自然化
向精神薬や脳表電気刺激の 実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には緊密な関係がある。しかしながらそれが具体的にどのような関係にある のかは未だ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的なレベルにとど まってはいるが様々な仮説が提唱されている[4]。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化 (Naturalization of Qualia) と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている[5]
クオリアに関する様々な立場
クオリアに関する議論は様々な論点が知られているが、中でも最も大きな論争となるのは、その存在論的 な位置づけに関する議論である。つまりクオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのか、という問題である。この問題に対する考え方の詳細は論者に よって様々であり、一概に分類することはできないが、おおよそ以下の三種類に分けることができる。物理主義的立場、二元論的立場、そして判断保留型、の三 つである。
物理主義的立場
クオリアは何か非常に真新しく、現在の物理学の中には含まれていないものように見えるが、そんなことはない、すでに含まれているのだ、という立場。こうした立場は一般に物理主義的と呼ばれる。この立場を取る世界的に有名な論者としてダニエル・デネット[6]、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランド、ポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘[7]、金杉武司[8]がいる。この立場ではフロギストン、カロリック、生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。
二元論的立場
クオリアは現在の物理学の範囲内には含まれていない、と考える立場。つまり既知の物理量の組み合わせでクオリアを表現することはできない、という立場。こうした立場は一般に二元論的と呼ばれる(ただし二元論と呼ばれてはいるが、霊魂や魂の存在を仮定するデカルト的な実体二元論を主張しているわけではない点注意されたい)。この立場は大きく次の二つに分かれる。ひとつは「物理学の拡張によって問題は解決される」という立場。そしてもう一つは「そもそも私達人間にはこの問題は解けない」という立場である。
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- 物理学拡張派
- クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズ[10]、ロジャー・ペンローズ[11]が、また日本語圏で有名な論者として茂木健一郎[12]がいる。この立場には二つの違った流れがある。
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- 2.量子力学に注目する立場
- クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。中でも最も有名なものに、ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある[13][14]。この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質の波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、と。ただこれは理論物理学者が提示している説とはいえ、その内容はまだいたって概念的なものであり、理論の詳細が数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。
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- ニューミステリアン
- クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私達人間にはこの問題は解くことは出来ないだろう、と考える立場。一般に新神秘主義と呼ばれる。代表的な論者にトマス・ネーゲル、コリン・マッギン[15]、スティーブン・ピンカーなどがいる。人間という種が、その先天的な脳構造に由来して認知能力に関してある一定の限界を持っており、その外側にある物事が人間には理解できない、という認知的閉鎖(英:Cognitive closure)の概念などをその基軸に置く。
判断保留型
ハード・プロブレムについて机上でいくら議論を積み重ねても謎は解けそうにもない、と考える立場。だから哲学者がやってるような形而上学的な議論は一時脇に置いといて(判断保留にして)、まずは実証的なデータを積み重ねていこう、と主張する。この立場の代表的人物としてフランシス・クリック[16]、クリストフ・コッホ[17]がいる。こうした考えを背景に持つ研究で有名なものとして以下のようなものがある。
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- NCCの探索
- 意識と相関するニューロン(NCC:Neural correlates of consciousness 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究[18]。フランシス・クリックとクリストフ・コッホが先頭を切る。
歴史
クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語に由来する。この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。まず1929年、アメリカ合衆国の哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』[19]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用する。
私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。そしてこれらには何らかの 普遍的なものだと考えられる。私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これら は対象の特性とは区別されなければならない。この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。クオリア はダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない。
– ルイス『精神と世界の秩序』(1929)
その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められる[20]。1974年には、クオリアの問題にとって大きい転機となる論文が現れる。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において[2][3]、物理主義はクオリアの具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強くアピールされる。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、メアリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱される[21]。こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなる。最終的にこの流れを決定付けるのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズである。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作[1]を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開する。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなる。以後、現在に至る。
発展
クオリアを言語や物理的特性として記述しきることができないことは、哲学でしばしば議論される幾つかの疑問と結びついている。
- クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。科学的方法論に基づいてクオリアを扱っていこうとした時に出会う最大の困難は、実験によってクオリアを測定することが出来ない、という点である。このことを『我々は意識メーターを持たない』などと比喩的に表現する事もある。どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げることができるのか。科学哲学の知見を絡めて議論される。
- また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていないものが、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、そのときその人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じているのか[22](⇒人工意識)。
- 自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか(⇒他我問題、独我論)。
関連項目
- 共感覚 異なるモダリティの感覚が混ざりあって体験される現象
- 盲視 見えていないといいながら、視覚刺激に反応できる症状
- 幻肢痛 手や足を失った人が、失った手足を痛いと感じる症状
- 両眼視野闘争 左右の目に異なる映像を与えたとき、映像が交互に入れ替わりながら体験される現象
- 主体と客体
- 美意識