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冒険(ぼうけん)とは、日常と かけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。 こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。
こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者(ぼ うけんしゃ)と呼ぶ。冒険には危険や、成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれ てきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。
語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語adventureは投機、山師の意を含む。ラテン語ad+vent(外から来る、外からやって来た(~事件))。
古代の冒険
文書で残された最初の冒険といわれるのは、ギルガメシュ叙事詩だろう。古代にはその他にも報告として残されている冒険がいくつかある。例を挙げれば、古代地中海世界での屈指の冒険的な事件、トロイア戦争の経緯とその後日談を描いた「イリアス」、オデュッセイアがまず挙げられるだろう。後者は、トロイア戦役からのギリシア軍の参謀役であったオデュッセウスの帰国の旅を描いたもので、当時の海洋航海の危険を虚実取り混ぜて描いている。同じくギリシア神話の中の冒険としては、アルゴー遠征隊の冒険が、物語や映画にもなって広く年齢を超えて、古代の冒険としては親しみのあるものになっている。 アジアでも、秦の時代、徐福が不老不死の薬を求めて、日本などに遠征の旅に出されている。 また、戦争や戦役を重ねての個人史の記録もまた、冒険的な日々を物語るものと考えられるなら、カエサルの『ガリア戦記』もこの方面の最も古い記録として留意されるべきだろう。
中世の冒険
中世の初期には、ゲルマン民族の大移動などに関連して、騎士や英雄たちの物語の幾つかが例として挙げられる。例えばアーサー王伝説、「ローランの歌」、ニーベルンゲンの歌など、枚挙の暇がない。 ヨーロッパの中世で、最大の冒険といえば、言うまでもなく十字軍の遠征が挙げられるだろう。度重なる遠征には、宗教上の動機の他、さまざまな利害、名誉、権勢への欲望も混入していたが、少年十字軍のような純粋な動機が、逆に悲劇を生み出したといったものもある。
ゲオルギウス伝説のような竜退治の冒険譚は他の中世的モチーフと共に、後世のファンタジー・ロールプレイングゲームのストーリー原型となった。
近世・現代の冒険
ルネサンスから今日に至る発見の数々は、その時代にあっては確かに冒険であった。例を挙げるなら、アメリカ大陸を発見したり、フィリピンまで到達したスペイン人やポルトガル人航海者が挙げられる。とりわけ、アレクサンダー・フォン・フンボルトやデイヴィッド・リヴィングストンのような人たちの研究探索旅行、極地探検家としてのジョン・フランクリンなど、彼らもまた冒険者の名に値するだろう。今日の宇宙空間への飛行もまた「人類の最大の冒険」という呼び方をされるのは周知のことである。
ただ議論の余地があるのは、戦争への従軍を冒険と呼ぶか否かというケースである。フランス革命以降、軍隊の主力が傭兵から市民兵に移行し始め、また王立軍の中核に志願兵が参加し始めたことなど、とりわけクリミア戦争におけるトルストイやスペイン内戦におけるヘミングウェイなど、後の偉大な文学者が兵士として参戦したことなども、従軍を冒険と捉える傾向に大きく影響している。第一次世界大戦あたりまでは、戦争をそのように美化する傾向もなかったわけではない。戦記物や従軍記は書き手の筆致により冒険小説のような痛快さを演出することがあるものの、戦場の現実が明らかにされるようになるにつれ、その本来の危険性(危険を冒す)もまた明らかになった。
「強制され集団的に戦地に送られたものであって、自発的な冒険の名には値しない」として否定する向きが多い。さらに戦争という行為を遂行すること自体、個人を人に対する戦いという集団的な狂気に飲み込んでいくようなもので、冒険の名はふさわしくないとされることも多い。T・E・ロレンスの『知恵の七柱』などのように従軍記録を元にしたすぐれた文芸作品も多く存在するが、実際の行為の正当性については多く議論が分かれる。
現在は未開の地はほとんどないが、エベレストや南極大陸など人類の多くが足を踏み入れる事が困難な場所に行くことも冒険といえるだろう。しかし、この場合探検と区別がつきにくいので、冒険の定義はやや曖昧となってしまう。
学術調査としての冒険
自然科学の発展と冒険の歴史は密接不可分であり、多くの冒険は現地踏査を目的として行われてきた。常人の立ち入れない領域に分け入り測量し、動植物や鉱物等の蒐集や観察を行うことは博物学の主要な研究手法である。近世では地図作成を目的とした航海や登山、秘境・極地踏査など、またダム建設や鉄道敷設のための実査がさかんに行われた。博物学者ダーウィンが乗船したのは英国海軍の測量船であった。現代でも宇宙探査や深海探査、ケーブダイビングなど人間を現地に送り込む手法での調査が行われる。実査や実証に おいて、生身の人間が現実に踏査するという行為は、論理的な妥当性以上に価値があると見なされる。火星や金星に無人観測機は到達しているが、多くの人に とって人類はまたそれらの惑星に到達したとは考えられていない。地理的な冒険だけではなく、不測の事態を前提としたある種の実験には冒険的要素が多分に含 まれる。その結果として爆発事故や環境汚染など、医薬品や医療器具の生体実験の場合では深刻な後遺症や生命の危険をもたらすことがある。(参照:探検)
挑戦と冒険
現代的な冒険の多くは、新たな記録に挑んだり、より困難な手法で目標を達成するといった挑戦(challenge)の傾向が強い。単独無寄港世界一 周や無着陸世界一周などといった挑戦、世界最高峰への無酸素単独登頂などの冒険は人間や技術の可能性に挑戦する目的での冒険である。また個人が特別な覚悟 をもって挑戦するものもあり、ドーバー海峡遠泳やアメリカ大陸徒歩横断などがこの種の冒険に挙げられる。
冒険の文学的表現
冒険物語の典型としての貴種流離譚は自然発生的で、世界の各地に見られる物語の形態である。ヘラクレスの冒険やスサノオとヤマタノオロチ、マヤ神話にも双子の英雄による冒険譚が描かれている。近代の文学的な表現形態として、冒険小説というものがある。海洋国家としての伝統あるイギリスには、海洋冒険小説の伝統がある。またSF小説、ファンタジー小説の世界では秘境冒険小説が大ブームとなったことがある。
ゲームとしての冒険
冒険という言葉は、ロールプレイングゲームとして紙の上で筆記用具を用いて行われるテーブルゲームに も使われている。ここでは完全に完結した空間の中で物語が終結することになる。しかし、一つ一つの冒険というものは、ひとつの戦役、キャンペーンとは違っ て、ひとつの冒険がまたつぎのそれを生み出し、一続きになっていくものが多く、ゲームとして完結した冒険はいささかその真の意味からは逸脱した要素を持っ ているといわなくてはならないだろう。
関連項目
- 探検
- 冒険小説
- 冒険旅行
- 冒険遊び場
- 轟轟戦隊ボウケンジャー - 冒険がモチーフとなっているスーパー戦隊シリーズのひとつ。
- 洞窟潜水
本能(ほんのう)とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定されている、ある行動へと駆り立てる性質のことを指す。
定義
メリアム=ウェブスター辞書では本能を次のように定義している。「判断を伴わず、環境の刺激によって引き起こされる個体の複雑な反応で、遺伝的で変 更がきかない」。しかし本能という用語は歴史的に非常に多くの意味で用いられてきてた。現在でもしばしば全く異なる意味で用いられる。従って本能という語 が使われた場合、それがどのような意味で用いられているのかを確認する必要がある[1]。動物行動学者パトリック・ベイトソンは代表的な意味として次の九つをあげた[2]。
- 生まれたとき、あるいは発達の特定の段階で存在する性質。
- 学習なしでも存在する性質。おそらくもっとも一般的な用法。
- 遺伝的である性質。高い確率で世代を超えてみられる性質。
- 進化の過程で形成された性質。
- 役に立つようになる前にすでに発達している性質。
- 種、性、年齢などを同じくするグループに共通する性質。
- 動物の行動の一部。例えば狩猟、体を綺麗にするなど。
- 専門化された神経構造を持つ性質。現代神経科学、認知科学ではこの意味で用いられる。例えば顔認識、感情、表情などを司るモジュール。
- 発生的に強靱で、経験からの影響を受けない性質。発生生物学で用いられる。
精神分析では本能を性や攻撃行動に関連する情動として説明する。エロスやデストルドーと呼ばれることもある。
概要
通俗的には母性本能、闘争本能などのように性質を現す語を伴い○○本能という形式で使うことも多い。
専門分野では通常は本能という語の使用は避けられる。動物行動学の他、心理学、神経行動学、神経生理学などの分野では実際の行動に対して本能行動という表現を用いる。このばあい対概念は学習行動である。
行動は「本能的なもの」と「非本能的なもの」というように二種類に分けて論じられることが多い。また経験は行動の獲得に、遺伝子は本能に影響を与えると言及される。しかしこのような単純な二分法には動物行動学者からも反対がある。例えばハキリアリは分業化が非常に進んでいるが、分業は与えられた食物によって決まる。同じ遺伝子型が全く異なる行動の表現型を生み出す。望むだけ食事をした母ラットの子は体が大きくなるが、少ない量の食事を与えられた母ラットの子は体が小さい。後者の子ラットは豊富な食事を与えられれば食べ続け肥満となるが、しかし前者の子はそうしない。子ラットの行動(本能)は母胎の状態の影響を受ける。カッコウの オスは幼鳥の時代に遠くで鳴く同種のオスの鳴き声を聞いて求愛のさえずりを学習する。しかし他種のオスのさえずりを学習することはない。このように行動は 発達過程で遺伝子、母胎の状況、環境と経験など様々な要因の影響を受け形作られる。したがって、ベイトソンの視点では、行動を学習と本能という二つに分け る事は行動の理解の役に立たない[2]。行動を学習か生まれつきかで二分しない立場は行動生態学などでは標準的である。
これは生物の性質のどのような側面に注目するかの違いでもある。神経行動学などではある神経の構造や働きが行動にどのように影響を与えるかに注目す るため、学習の影響を受けない固定的な行動が研究の対象となりやすい。一方で学習そのものも遺伝的な基盤があり、進化によって形作られたいわば「本能」で あり、行動生態学の視点ではどの程度学習や経験の影響を受けるかの程度の差でしかない。
ヒトの本能
人間に本能があるかどうかはながらく議論の対象であった。しかし前述の通り人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第である。一般的に人間に本能行動はほとんど無いかわずかであると見なされている。また社会学、哲学、心理学の一部では本能を「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつき持っており、変更がきかない」と定義する[3]。この定義の元では性欲や餓えも変更がきくために、本能とは言えないと主張される。極端な行動主義や環境決定論においてはあらゆる種類の「本能」が否定され、行動はすべて学習の結果として説明される。
一方で認知科学、人間生物学(特に社会生物学や人間行動生態学、行動遺伝学)などの分野では人間に本能を認める。ただし本能という語ではなく、生得的、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、モジュールを持つ、と言うような表現を用いるのが通例である。これらの分野で用いられる「本能」は3,4,8の意味のいずれかである。この場合、本能的と見なされることが多い性質には次のような物がある:言語の獲得、利他主義や嫌悪などの感情、ウェスターマーク効果、学習バイアス(例えば甘い物はすみやかに好むようになるが、苦みや渋みは好みとなるのに時間がかかる)など。また類人猿と人間では公正さの感覚も本能的であると考えられている。
やや特殊ながら、ほとんど全人類に共通の好意的な挨拶を紹介しておく。まず目を見つめ、眉を少し上げ、数秒そのままで、それから頷くというものである。これは、大人が赤ん坊を見て、あやそうとするときには自然に現れる。ヒューマン・ユニバーサルズも参照のこと。
自然主義的誤謬
本能という語は「戦争がなくならないのは人間に闘争本能があるためだ」のように特定の好ましくない行為(攻撃行動、人種差別、性差別な ど)を正当化する際にも用いられる。また逆に、そのような説明は好ましくない行為を正当化するために行われているという非難を伴うことがある。しかしある 性質が本能的であることと、それが倫理的、道徳的に好ましいかどうかは別の問題である。「説明」(○○は本能的である)から「規範」(○○と振る舞うべき である)を引き出すことを自然主義的誤謬、逆に規範から説明を引き出す事を道徳主義的誤謬と呼ぶ。自然に訴える論証も参考のこと。
出典
- ^ 例えばスティーブン・ピンカーの著書『言語を生み出す本能』に関してマイケル・トマセロとピンカーの間で論争が起きたが、その一部は本能の定義が原因であった。
- ^ a b http://www.science.org.au/sats2007/bateson.htm Cognition and instinct by Professor Sir Patrick Bateson
- ^ Sociology: An Introduction - Robertson, Ian; Worth Publishers, 1989